「病気​」という言葉に振り回されていませんか?

抵抗がある方も多いでしょうが、イメージを変えてもらうためにもご覧ください。

日本語の「病気」の起源

 日本語の起源は中国の漢語に由来します(そこから独自に発展した言語です)なのでこの「病気」の起源も中国に見ることが出来ます。現在この「病気」の記述のある書物で最古と言われているものが「黄帝内経」という中国最古の医学書と言われる本です。その9巻「素問」に「百病は気に生ず(気によって生じる)」という記述が書かれています。この書物は春秋戦国時代から前漢の時代にかけて書かれた書物だと言われています(およそ紀元前770年から紀元前200年あたりまでの期間)。大体2500年前にはこの考えが出来ていたといえます。つまり、私たちの使う「病気」及び「病は気から」という言葉はここから始まったのではないかと想定することが出来ます。

「病は気から」の気って気持ちの気??

 東邦大学医療センター大森病院医学科の三浦医師の論文によると「気とは物質の根幹であり生命現象を生じさせるもの」であり「こころは気によって形成される」といっています。となれば「気」とは私たちの思う「やる気」や「気分」、「気持ち」の気と近い部分もあるにせよ、本質的にもっと大きな領域の部分ではないかとわかります。つまり、逆に気持ちもこの根本的な気で生まれていると表層の部分といえ、気持ちで変化することもあれば、気持ちごと病んでしまうこともあると考えることが妥当ではないかと思えるのです。

東洋医学の「病気」の概念と西洋医学の「病気」の違い

 日本はもともと東洋医学からこの言葉を使い始めたのですが、そこに西洋医学の概念が入り込んで来たのが現状です。東洋医学が肉体の本質的力を整える方向性だったのに対し、西洋医学はその部位の原因に対処するという方向性を持っています。東洋医学は「未病」という考えもあるぐらい「病気」と「健康」の差が曖昧で本質的には両者は繋がっているという考えです。かたや西洋医学は「疾患」という現出した症状に対して原因を突き詰め、その原因の改善を図ることで「疾患」を取り除くという考え方が基本です。どちらが優れているというわけではなく、現在はその両方の良いところを取り込もうという考えが医学界の主流のようです。

 しかし、かたや医療保険の保険診療ということに限れば、現在の「病気」は西洋医学の分類を中心に考えられています。また、私たちは単に具合が悪いときでも「病気かも」と思います。つまり、ここから読み取れるのは私たちの考える「病気」の範囲は医療保険で使われる「病気」よりも相当範囲が広いのではないかということです。一方、医療保険で使われる「病気」とは保険を使うための細かい分類だと言えます。言葉は同じでも様々な形で使われます。ですから、言葉にあまり左右されない方が良いと思います。

ICD-10という国際基準での診断(+dsm5)

 ICD-10とはICDの第10版ということです。このICDというのは「病名」の国際基準でその原型は、かのフローレンス・ナイチンゲールがイギリスのロンドンでの国際統計会議において傷病の統計調査を提案したことが始まりです(1860)。1900年に初版が発行され、以降現在の第10版(1990)の2016年改訂版が最新版となっています。このICD-10は22章で構成されており、各「疾患」が分類されています。現在はこのICD-10による分類が「病気」の分類として日本の医療保険では認められています。また、精神疾患においては米国で発行されているdsm5という診断基準も参考にされています。ICD-10は厚労省で2013年版までが公開されています→厚労省ページへ

なぜ「病気(疾患)」の分類が必要なのか

 実際に病院に行くと「原因がわからない」や「複数の要因」という診断をされることがあると思います。しかし、医者にはこの状況にも関わらず診断しなければならない時があります。それは、申請が必要な場合です。例えば労災申請障害年金申請です。こういった申請時には原因と経過、そして現状を明確に示さなければ審査に通らない可能性があります書類のみで審査する形なのでこういった分類による詳細の記述がどうしても必要になるわけです。つまり、現在、病院の示す「病気」の「病名」は「疾患」の分類だと捉えるべきだということがわかります。ですから、こういった言葉に振り回されるのは得策とは言えません。あくまで自分の身体の状態を正確に捉えることが重要になります。そして、自分の人生においてどのように”病状”と付き合うかが大事なのであって「病気」という言葉はただの分類でしかないということを理解することが大事です。この分類の中でも様々な”症状”があるということは周囲の人はほとんどわかっていないのが現状だと思います。

そもそも「病気」の「診断」とはなんなのか

 私は不登校支援をSSW(スクールソーシャルワーカー)として携わったことがあります。例えば子供の中ではADHDの疑いのある子もたくさんいますし、「発達障害」の可能性があると想定される子どももいます、また、「精神疾患」と思われる子どももいます。私はこのように考えています。

『普通に学校に行っているように見える子どもたちの中にもたくさん予備軍がいる。「病気」と「健常」との線引きは明確には出来ない』と。

 あくまでも不登校の子どもは不登校になってしまう”症状”が出ているだけなのです。

 

 同様に就労中や実生活で”症状”が出ている場合には、それを改善するために『診断』を経て投薬などの効果的な治療をする方が望ましい時もわずかではありますが、あるということです。しかし、「病気」の「診断」が「健常」との線引きだと認識されることが多いので「診断」を拒否する方もまた多いのです。

 確かに「症状」が出ている現状を受け入れることが出来ないということはあると思います。ただ、「病気」の中で「慢性疾患」というのは結構「普通」なことです。実は「治療」をしながら社会で暮らしている人は大勢います中高齢になるとさらに高い割合で「治療」をしながら生きている人は増えます。実は別になんてことはないわけです。ただ、「うつ病」や「精神疾患」だと『普通と違う人』だったり『変な人』などと言われるのではないかと恐れている人もいます。でも、「うつ病」や「精神疾患」と診断されなくても『普通と違う人』や『変な人』と周りが思う人はいます。誰だってそれぞれ価値観が違うのですから当たり前のことです。つまり、「うつ病」や「精神疾患」の『診断』はその人を「治療」する方法を特定するだけであって、潜在的に「うつ病」の人や「精神疾患」の人は診断されている以上に多いし、「うつ病」的な人や「精神疾患」的な人はもっと多いと考えるのが普通なのですですから、敢えて自分のことを「病名」で考えずに、例えば「うつ病」の診断向けの薬を飲んでいるだけと考えるだけでいいことなのです。あなたはあなたなのですから。

「病気」と共に生きるということ

周りの声に耐えながら生きていくという人生を選択をしたくないと思うことはよくわかります。そのせいでたとえ症状を自覚していたとしても病院に行って診断を受けることを躊躇してしまうことが良くあります。たとえば「精神疾患」などはその典型な例で、周りに言われる言葉がグサグサと突き刺さってきます。それを受け止めることが大変なのが私はわずかながらわかります。そこで、私の実体験を話しましょう。読んだ皆さんが新しい人生を歩む自信がわずかでも出てくれることを期待して開示します。

ケーススタディ(谷端 英孝の場合)

喘息の発症とそれによる周りからの圧力

 私は小学校の頃に「気管支喘息」という診断をされました。これは「小児喘息」とは違い、大人になっても発作が起きることがある症状です(「小児喘息」から「気管支喘息」に移行することも良くあります)。当時、情報が少なく「小児喘息」のありがちな『成長と共に症状が治まる』という認識が「喘息」の一般的な認識でした。その為、私がさらされたのは周りからの心ない言葉でした。その言葉は、「気持ちが弱いから発作が出る」や「我慢すればすぐ治まる」、「運動して肺を鍛えれば成長によって症状は軽くなる」というものでした。私は小さいころから運動していましたし、気持ちが弱いと思っていませんでした。しかし、私は人間ですから常に気持ちが強いとは言えません。発作が出る時に気持ちが弱いと言われても完全に否定することが出来ませんでしたちなみに「気管支喘息」は気管支が通常より狭いので健常者の広さならば痰が切れる量にも関わらず切れないので詰まってしまうというものです。痰が詰まっていない場所のみで呼吸することになるので息が苦しくなるのです。では、どういう時に痰が詰まるのでしょうか?それは人によって様々です。私は主に夜中と早朝の気圧差が生じる時の早朝によく発作が起きていました。実はその原因の中に”興奮したとき””緊張したとき”というものがあるのです。どうやら血管が収縮して急激に酸素を使用した時に肺から急速に酸素を取り込もうとするときに詰まるようです。私はとてもじゃないですが興奮とか緊張とかをコントロールする自信はありません。私ははっきりと思います。「気管支喘息」は「精神疾患」ととても似ている、と。同じような悩みを抱えているのではないか、と。

成長するに連れて感じたこと

 私は成長するにつれて「私は不完全な人間なのではないか」「私は生きている価値がないのではないか」と思うようになりました。その要因は私は周りの目を気にしていたからです。そのように教育されていたということもあるでしょう。私は、周りの言葉に対して『自分の意見が言えなく』なりました。その結果かどうかはわかりませんが、いじめにも合いました。私は自分の喘息を抑えるために強い薬を求めました。高校生の時たどり着いた錠剤は『ステロイド剤』でした。その時、私はその『ステロイド剤』がドーピングの薬として認知されているな思いもしませんでした。その時、私は「ボート部」で筋力トレーニングも激しくしていたため、自分の努力のたまものだと思っていたのです。その部活で私たちの1つ先輩が国体に出場しました。私たちの代でも国体に出場することが濃厚な成績を収めていました。しかし、私はその頃、私が使用している『ステロイド』が国際大会で「ドーピング」として禁止されている薬物だということを知ります。部活の友人に言う勇気は私にはありませんでした当時の私が『ステロイド錠剤』を手放すと発作が強くなるのです。私はこの薬を手放すことは出来ません。私は部活を辞めました。誰にもこの事実を言えませんでした。私はみんなの為に一番良いことをやったつもりでしたしかし、果たして私の発作は悪化しました私の心のバランスは壊れてしまったのかもしれません。私は高校を留年し高校3年生を2年間することになりました。本当に苦しい日々でした。早朝起きた発作が収まるのが朝9時から10時、疲れ果てて寝てしまい昼12時ごろ目が覚めます。それでも出席日数が必要だったので昼から登校。喘息の本当にきついところは、発作が収まってしまえば健常者と変わらないところです。その上私は『ステロイド剤』の影響からか身体が筋骨隆々、とても病がある身体のようには見えません。周りから疑心暗鬼の目で見られ続けました。その時の担任は発作が朝に起きて治まってから昼に学校に来る私に「サボリ」と言い放っていました早くこの世から逃げ出したいと、そう思っていました。しかし、こういった経験により今の私があるのも事実です。

 

 私が自分のことをこうやって皆さんに公開するのは、一人で悩んでほしくないからです。自分の目の前の問題が全ての問題だと思ってほしくないのです。気持ちを分かり合えることは出来ないかもしれませんが、皆さんが周りにわかってもらえないことを受け止めることは出来ると思うのです。

周りの言葉は『悪魔の証明』

 「気持ちが弱いから発作が出る」や「我慢すればすぐ治まる」って、みなさん、これらの言葉に違和感を感じませんか?「気持ちが弱い」「我慢する」というのは客観的に判断できない上に心の中の問題になっています。この言葉が問題なのはこれは『悪魔の証明』と言われるものだからです。なぜなら”症状”がなくならなければ「気持ちが弱い」「我慢が足りない」と言われるのですが、「気持ちが強い」「我慢している」状態ならば”症状”が消えるという根拠が存在しないのです。私と私の家族は周りの言葉に振り回されイロイロなことを試しました。それは良い経験だったと今では思います。しかし、ハッキリ言います。私は今も「常備薬が欠かせません」。それは私が気持ちが弱いからかもしれません。ただ、一つ言えることは、『これが私であり、私はこんな私を受け止めている』ということです。

自分に起きた“症状”をどう折り合いをつけたのか

 私は自分のことを被害者とは思っていません。私にとっては大事な人生の経験だと今は思います。私を救ったのは何か?それは、「知識・情報」です。私は最初「喘息」という病名をもって共通の”症状”だと思っていました。しかし、そんなことはなく、人それぞれ”症状”は違い、その生活における”苦しさ”が違うということに気付いたのです。”症状”のカタチは同じようですがそのカタチが出るタイミングや強弱さが違います。同じ「喘息」でも様々です。ですから医者の方も薬を処方しながら合う薬を選択していきます。それは医者の方々も良くご存知で、生活するために必要な薬を常備するようにアドバイスしてくれます。これからいう言葉は私の持論で個人的な見解ですが、

『”症状”は精神的、肉体的に関わらず身体の内側で処理できない”警報”が”症状”となって現れるものです。』

つまり、”症状”が出たということは身体からの”緊急事態”だと認識してほしいのです。身体からのメッセージなのです。「少し休もうよ」というアドバイスなのです。

認めることで始まる世界

 私は社会保険労務士です。私は事業主と労働者の橋渡しをして、事業の発展を陰で支えたいと思ってこの仕事を選びました。確かにこれが動機です。でも、それと同時に私は「発作が起きるかもしれないから朝が早い常勤は続かないかもしれない」という思いと「自分の疾患では高齢になって解雇されたら再就職出来ないかもしれない」という不安を解消するためにこの仕事を選んだことも1つの事実ではあります。つまり、自分を認めるということは自分の新しい人生を作り上げることに繋がるのです。なぜなら、もし、自分を認めなければ​、無理に就職をして自分を追い込み、発作を誘発し、解雇されていたかもしれないのです。そして、そういった自分を卑下し、社会に馴染めない自分を責め、自分をこういった体に産んだ母を恨んだかもしれないのです。もし、あなたが自分を卑下し、そうなってしまったことを後悔しているというなら、今一度考えてみてほしいのです。実は、自分からのメッセージなのかもしれない、と無理しすぎであると。他の人のように出来ない自分が苦しいと思う時は考えてみてほしい。他の人にはなれないのだと。あなたはあなた自身なのだと。あなたはあなたの人生でしかないのだと。そして、あなたの人生はとても尊いものだと。

 実は統計学としてこのような研究結果があります。常に幸せだと思う人と常に不幸だと思う人にアンケート調査を実施したところ、どちらも人々にもほぼ同じだけの量の良いことと悪いことが起きていたことが結果的にわかったのだそうです。これは、どのような状況であれ人は幸せを感じることが出来るということを示しています。私は障がいを持つ人と接する時、その人が何が大変かどうか、本人が言うまでは判断しません。なぜなら、だれだって初対面でわかったりはしないからです。相手と接しないと相手の要望はわかりはしないのです。そして、相手の心は最後までわかりはしないし、わかる必要もないのです。その人が望むことに繋がるようなアドバイスを全力でするだけなのです。それが良いかどうかも本人が判断すれば良いのです。しかし、私は信頼関係は築くことが出来る。その信頼関係こそがどのような人同士でも繋がることの出来る方法だと思うのです。

​職種は性格を表さない

 「病気」に対して一括りにしてしまう人は多いと思います。従業員が「精神疾患」になってしまえば迷惑がる同僚もいるでしょう。こういった状況で「大丈夫」だとか「乗り越えましょう」などと安易に言う人はそもそも当事者意識が欠如していると思います。簡単には「大丈夫なわけない」し、「乗り越えられる気がしない」に決まっているのです。だから、安易に病院に係ることが出来ないでいるのです。ですから、そんなあなたに合う職種はあれだこれだなどとは言えません。ケースワーカー、ソーシャルワーカー、PSW(精神保健福祉士)、社労士、様々な職種がありますが、それぞれの職種に関係なく人はそれぞれ多種多様な価値観をしているからです。だから、この職種はどうだ、とは私は言えません。しかし、ハッキリ言えるのはあなたに合うサポーターはきっといるだろうということです。だから、あなたがサポーターを必要としているならば探すことを諦めてはいけません。あなたに合う人を探すべきなのです。どういう人が良いのか、それはあなたが探せばよいのです。探す行動もあなたにとって貴重な財産になるはずです。ここを読んでいるあなたが本人なのか、家族なのかわかりません。しかし、大事なことは今を否定せず、今をより良いものにするために行動するべきなのですその良いものが人によって違うだけなのです。私はそれを手助けできると思えば全力でそれを致します

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